里帰りとか

久々に、日記でも書いてみようと思う。
というのも、3月14日の夜に実家のおばあちゃんが亡くなって、急遽、実家に顔を出す事になり、いろいろと思うところがあったからだ。


自分では、それほど時間は経ってないつもりだったけど、考えてみれば6〜7年は親の顔を見ていない。
変わってしまった実家のある町の風景や、両親の姿を見て、改めて時間の流れというものを感じた。
正直なところ、実家には帰りたくなかった。
いろいろあって(心の病気のことも含め)実家の両親と関わる事に苦痛を感じるようになっていたし…。
なので、おばあちゃんが亡くなったとの連絡が、留守番電話に入っていたのを聞いた時も、本音を言えば帰らないつもりでいた。
でも、一人で頑なになっていてもどうか?という気持ちもあり、身の回りの何人かの人間や、友達なんかに「おばあちゃんが亡くなったって連絡が来た事」について「どうしたもんか?」となにげなく聞いてみた。
まぁ、当然のごとく「連絡きたんなら帰らなきゃいけないだろう」という答えがほぼ全員から返ってきた訳で…。
そういう答えに後を押されるような形で、帰る覚悟を決めて会社の休みを取り、週末の土日で実家に帰ることにした。


土曜の早朝の新幹線で広島へ、在来線に乗り換え実家のある駅に着くと、何も変わらない景色と空気(雰囲気)に懐かしさを覚え、それでも変わってしまった景色に少しだけ寂しい思いを感じた。
実家に着き、玄関をくぐるまでは、ここで引き返そうとも思った。
まぁ、いろいろと自分自身に対する言い訳やら、詭弁やら、とにかく自分自身が一番傷つかないよう、自分自身に対していろんな論理武装をしていた訳ですが(笑)
そんなのは杞憂でした。
というか、自分自身が勝手に身構えていただけであって、そこは家族なんだろうな。
あっさりと受け入れてくれた。
まさに、案ずるより産むがが易しってね。
そして、家にいる間中は、「帰ってこい」とも、「これからどうするんだ」とも、何も無かった。
ただ、家を出て、ひとりで生活をしている「人間」として「よく帰ってきてくれた」と。
そこら辺は、やっぱり敵わんなと思った。
親なんだよな。
二十代の頃に何もかも解った様なつもりでいたけど、三十路過ぎてみて何にも解ってなかったんだなという事に気付けた事は、うれしく思ったけど、そんだけ年取ったんだなと…


家族ってモノは、どんなに近しくても「他人」であると思ってきたけど、そういう大前提があったとしても、やっぱり家族は家族なんだなと。
そんな当たり前のような事を思って、なんか少し気が楽になったような気がする。


まぁ、家族といっても「人間」だからね。
当然嫌な所はあるし、うざったく思うんだけど。
頑なに拒絶して、ひたすらに自分の心を傷つけないように守ろうとするんじゃなく、たまには元気な顔を見せに帰るのも悪くないかな?なんて事を思ったりした。
というか、そう思える自分がいたことに少しびっくりしている訳さ。


今年は、去年の年末辺りからだけど、なんだかいろんな事が動いている気がする。
この流れに乗って、精一杯やれたら良いなと。
そんなことを思った訳さ。


走れるなら走ったら良いさ。
疲れたら歩いても良いさ。
歩けなければ立ち止まっても良いさ。
そして、また走り出せそうなら走り出せば良いさ。


うん。
今回の里帰りは、自分にとっていい刺激になったと思う。
おばあちゃんに感謝だね。